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#030

長崎県野鍛冶
宮﨑 春生

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野鍛冶 
宮﨑 春生

Miyazaki Haruki
1985年 長崎県生まれ

中学校卒業後、家族の転居により五島列島の福江島に移り住んだ。

高校2年生の時、医師である父から野鍛冶の話を聞いたことをきっかけに、鍛冶という職業、特に「野鍛冶」に興味を抱き、卒業後、福岡県の著名な鍛冶・大庭利夫氏に師事する。

以後、5年の修行を経て、福江島で独立。
尊敬する師匠に近づきたいと、修練の日々を送っている。

長崎県五島列島に、若き野鍛治がいる。
「野鍛治」とは、主に農機具を作る鍛冶屋のこと。
海に囲まれた五島では、船の錨などの漁具も作らねば野鍛治とはいえない。

宮﨑 春生さん インタビュー
野鍛冶になろうと決めたきっかけは?

子どもの頃は、数学が大好きで、反対に工作や絵を描いたりするのが苦手だったので「将来は理系の仕事に携わるのかな…」って漠然と思っていました。その当時は職人の世界に身を置くなんて、少しも考えたことはありませんでした。

中学を卒業した時、父の仕事の都合で福江島に引っ越して、五島列島の美しい自然に触れ、また、そこで暮らす多くの人達に親しくしていただき、この島が大好きになったんです。

そんな頃に、医師のかたわら農作業も行っていた父から、主に農具を作る「野鍛冶」の存在を聞かされました。くわかまなどの農具、漁業に使用する道具など、生活や産業を支える道具を作る重要な職人であること。また、「野鍛冶」は後継者が育ちづらく、その仕事が途絶えようとしている実状を初めて知りました。

それから数日後、「この仕事、自分にできるものかな?」と真剣に考えるようになり、日に日に「野鍛冶になって、五島の人の役に立ちたい」との思いが強くなっていったんです。
そして、高校卒業後に福岡へ出て、大庭さんに弟子入りを申し出ました。

高温に熱し、鉄に穴をあける。慎重に位置を確認し、打ち込んでいく。

師匠の下で学んだことは?

師匠が具体的な指示やアドバイスをして教えくれることはありませんでした。「見て覚えなさい」と、師匠がひたすら仕事に打ち込むそばで、私は一つひとつを見て学んでいきました。

そのうち、同じ作業をしていても昨日と今日では微妙に感覚が異なったり、これまで気がつかなかったことを、肌で感じたりすることができるようになっていったんです。

しかし、師匠からは鍛冶の技術だけでなく、人として、職人としての大切なことをたくさん学ばせていただきました。

それは、「常にお客さんの道具に対する想いを感じ取って、その想いをきちんと道具に込めて仕上げる」ということです。
同じ仕事で使う道具でも、人によって好みが違います。だからこそ、想いを的確に把握しなければなりません。それができれば、お客さんに喜ばれ、お客さんの喜びが職人にとっての糧となって、次はもっと喜んでもらえる良い道具を作ろうというモチベーションになっていきます。

師匠が教えてくれたのは、まさに職人にとっての喜びでした。

焼き入れを成功させなければ完成にはならない。
炎の中の鉄の色で判断するため、日が落ちてから、一切の明かりを落とし、焼き入れを始める。

独立して感じたことは?

やはり、師匠の偉大さですね。今になって「やっと分かったこと」や、逆に「分からないこと」が増え、鍛冶という職業の奥深さを感じています。師匠は本当に凄いんですよ!

それと、修行時代に一度だけ、師匠にすごく怒られた時のことをよく思い出します。怒られた原因は失敗した道具を隠していたことで、「鉄を無駄にしてはだめだ。鉄を大切にしない者に鍛冶の資格はない!」と、いつも温和な師匠が初めて怒りの形相を見せました。

この時の言葉を今でも肝に銘じています。

そんな師匠の技術と想いを、私がしっかり身に付け、次の世代へ繋いでいきたいと思います。

宮﨑 春生さん
野鍛冶
宮﨑 春生さん
大庭 利夫さん
師匠
大庭 利夫さん

師匠 大庭 利夫さん
インタビュー

宮﨑さんは、どんなお弟子さんですか?

私は生涯、弟子は採らないと決めていました。何度か弟子入りを志願する若者が来ましたが、すべて断りました。この仕事が本当に好きでなければ続かないし、私に彼らの生活や将来を保障はできないと思っていましたから。

でも、彼は今までの若者とは違っていました。

私の所に来た時には、すでにかなり鍛冶について勉強していましたし、熱意も感じていましたが、一度、二度と断りました。それでも彼はまたやって来ました。そして「福江島に鍛冶屋の場所を確保した」って言うんです。これにはさすがに驚きました(笑)。

そんな想いに押し切られた形で入門を許しましたが、私の目に狂いはありませんでした。

入門時から今も変わらず、真面目で丁寧な仕事をする職人です。そして、何より島に住む人達への想いを強く感じます。鍛冶はそこに住む人たちによって支えられ、地元に寄り添って成り立っていますから。

私もまだまだ勉強中です。死ぬまで勉強です。鍛冶になって60年近くになりますが、この仕事に卒業はありません。

取材を終えて

どこまでも純粋に〝鍛冶〟が好きな青年、それが彼に対する印象だ。

そんな彼に、弟子入り時代で一番嬉しかったことを尋ねると、「師匠が自分のために道具を作ってくれたことです」と大事そうにその道具を持ってきて、自慢げに見せてくれた。

そんな出来事を後日、師匠に伝えると、「そうですか」と、少し照れた優しい笑顔がこぼれた。

離れた土地で師を想う弟子と、弟子を気遣う師の絆を見ることができた取材となった。

野鍛冶

野鍛冶のかじ

刀鍛冶、鉄砲鍛冶など武器の生産に従事した鍛冶に対し、包丁や農具、漁具などを手掛ける鍛冶を野鍛冶と呼び、かつては日本全国に数多くに存在した。

野鍛冶とは地域に密着した仕事であり、くわなどの農具は土地によって違う土の硬さ、質を見分け、それに合った道具をつくりだした。

しかし、農業の機械化や大量生産による流通の拡大で、手仕事である野鍛冶の需要が減り、多くが姿を消していった。