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#066

石川県金沢和菓子職人
中島 一

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金沢和菓子職人 
中島 一

Nakashima Kazu
1980年 石川生まれ

金沢兼六園下で、創業133年を誇る老舗和菓子店「和菓子の中島」の若き四代目。

幼い頃から「家を継ぐのが当たり前」という環境で育ち、大学卒業後は、京都の老舗和菓子店で5年間、厳しい修行を積んだ。

27歳の時、先代の父・茂さんの元で修業を始め、2011年には、国家検定の菓子製造技能士試験1級に合格。しかし、この直後に父・茂さんが病に倒れ、他界。まだまだ学びたいという気持ちだったにもかかわらず四代目にならざるを得なかった。それから2年、代々受け継がれてきた「手づくりの心」を守り続けるため、研鑽の日々を送っている。

石川県金沢市。
江戸時代、徳川幕府を除く大名の中で最大の
102万5千石もの領土を有した加賀藩の城下町として栄えた。

中島 一さん
インタビュー

幼い頃からもの作りが好きだった?

幼い頃、父がよくプラモデルを作ってくれたんです。大小さまざまなパーツを組み上げていく、そんな父の姿に憧れていて、自分も自然にプラモデルを作るようになっていきました。

器用になったのは、父とプラモデルのおかげだと思っています。

器用さは手先だけではなく、体全体に浸透した感じですね。高校までずっと野球部に所属していましたが、どのような球種にも柔軟に対応し、右左に打ち分ける、「広角打法」が得意でしたから。

今の体型からパワーヒッターだったように思われがちですが、当時から30キロも太ったんです。この仕事、味の確認や、他を食して勉強することは必要不可欠ですからね。

父は常々「菓子作りは人作り」と言っていて、和菓子職人は内面の成長が大切であることを教えてくれました。でも、内面のみならず、外見も成長させてくれました(笑)。

和菓子職人となり13年。
まだまだ技術を追求中だというが、
和菓子への思いは誰にも負けないという。

京都の和菓子屋さんに修行に出たきっかけは?

父のススメです。自分でも、一度は外の飯を食ってからでないと、跡を継ぐことはできないと感じていました。

父は一度も外に出ること無く、祖父である先々代の元で修行を積み、三代目を継いだのですが、そんな父へ周りの風当たりは強かったそうです。きっと父は、同じ思いを僕にはさせたくなかったのでしょうね。

17世紀末、町人階級により華やかな元禄文化が誕生すると、
菓子は意匠を凝らした和菓子となり、京の都で大成した。

京都での修業はどのようなものでしたか?

本当に厳しいものでした。修行先の和菓子店は父が決めたのですが、「あえて厳しいところを選んだ」と言っていました。

仕事面はもちろん厳しかったのですが、何よりも寮生活が大変でしたね。6畳1間に男が3人。そのうち2人は2段ベッドで寝て、1人は床です。父も寮での生活面については、「リサーチ不足だった」と、言っていました。

実際、5年間の修業時代に2度、逃げ出したほどです。でも、辛かった時代を振り返ると、あの経験があったから、突然父を亡くし、四代目にならざるを得なかった苦境を乗り越えることができたのではないか、そう思っています。

取材を終えて

聞けば、中島さんは名門・星稜高校の野球部出身で、父・茂さんも星稜高校野球部OB。

そして、一緒に働く従業員の 五田 ごだ さんもまたOBで、中島さんとは同級生、主将で四番バッターだったとのこと。高校三年生の時には甲子園に出場し、当時「怪物」と称された松坂 大輔投手とも対戦したそうです。

五田さんが中島さんのお店を手伝うようになったのは、父・茂さんが亡くなった後から。「先代が突然亡くなって戸惑い、不安だらけの中島を放ってはおけなかった」という。

現在、五田さんは母校星稜中学で野球部のコーチをしながら、「和菓子の中島」の仕事を手伝っている。かつての戦友、最高に頼りになる〝主将〟が近くにいてくれることは、中島さんの大きな心の支えとなっているに違いない。