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豊国草履職人
軽部 聡

Karube Satoshi
1986年 山形県出身

「軽部草履」の現会長・軽部 俊男の三男として生まれる。
幼少期から草履作りには興味があり、工房に出入りしていた。
幼い頃は草履作りを継ごうと思っていたが、小学校の高学年になると「脚本家になりたい」との思いを抱くようになった。そして、高校を卒業した後は、東京の大学に通いながら脚本家の見習いとなった。
大学卒業後、脚本家見習いとアルバイトをしながら東京に住んでいたが、両親から「職人さんが高齢化していてお客様の要望に答えづらくなっている」と聞き、実家に戻ることを決意。
現在は40年ぶりに草履作りの世界に戻ってきた田川恒子さん(86歳)に指導を受け、日本の伝統的な文化や行事を支えるため豊国草履を作り続けている。

材料となる稲藁は、節と節の間のストロー状の部分を使うことで極上の履き心地を生み出す。
芯になる縄に稲藁を編み込んでいくことで草履を形作る。稲藁の太さのバランスに気を遣いしっかり編んでゆく。

軽部 聡さん インタビュー
アルバイトで知った
「実家の危機」

東京の大学に進学して、脚本家の見習いをしていました。大学を卒業した後、見習いの仕事だけでは生活できないので、小道具会社でアルバイトをしていました。
時代劇や伝統的なお芝居に実家の草履が使われていて、とある現場で使用している俳優さんからの要望をいただいたことがあって、両親に伝えていたんですよね。
そうしたら、「もう職人さんたちもみんな若くないから、すぐには対応できないんだ」って言われ、「このまま若い職人が入らなければ手編み草履の技術が失われてしまうかもしれない」と思って、実家に戻ろうって決意しました。
既に兄が継ぐことにはなっていたんですが、兄一人で今受けている仕事と経営を全部しないといけなくなってしまうので、サポートしなければという思いもありました。

形を整えたら鼻緒をつける。昔ながらの「くじい」という道具で鼻緒を通す。
さらに草履の裏に防水効果がある竹の皮を縫い付ける。

師匠の教えを胸に

僕が最初に教わったのは「寒河江で一番の草履職人」と言われた、松田まさの先生からでした。両親もお世話になっていて、3人目のおばあちゃんのような人です。 自分は手先も不器用だし覚えもかなり遅くて、本当に迷惑をかけたと思います。先生のお時間を頂いているのに全く進歩しない自分に嫌気がさして、「もう辞めたい」と投げ出しそうになったことがありました。でも先生は「技術っていうのは師匠からの預かり物で、技術を弟子に渡すのも仕事のうちだから、私は教えるの嫌だと思ったこと一度もないよ」と言って下さいました。
松田先生が亡くなってからは、田川先生に相談しながら草履作りをしています。一通り作業はできますが、先生方のようにできるかと言ったらまだまだだと思います。 先生方から学ぶことはたくさんありますが、僕も師匠から預かった自分の技術を次の世代に残していかなければ、と思います。

軽部 聡さん
豊国草履職人
軽部 聡さん
田川 恒子さん
国草履伝承館 講師
田川 恒子さん

草履伝承館 講師
田川 恒子さんインタビュー

昔は今みたいに子供が遊ぶようなおもちゃなんてないし、どのお家も草履作ってましたから、お母ちゃんの隣に座って藁を持って、草履編みのまねごとをして遊ぶんです。 でも私が大人になる頃、世の中ではほとんどの人が靴を履くようになって、私も40年以上草履作りをやめていました。 10年ぐらい前に知り合いから「軽部さんが伝承館を作るけど担い手がいない、教える人もいない」って誘われまして、役に立ちたいと思ってここに来ました。 ブランクは何十年もありましたけど、本当に草履編みが好きだったから、すぐに思い出しましたよ。 こういう手がかかる仕事は好きになれないと大変だから、頑張って続けていけてるということは、聡さんも草履編みが好きなんでしょうね。 歳は50も離れているけど、草履編みが好きな人同士、話してて分かり合えている感じがします。

取材を終えて

豊国草履の伝統を継ぐ聡さんだが、発注がない限り、毎日大量に作るものでない。 それ以外の時、聡さんは量産する草履の製造を手伝ったり、他の特別発注された草履を作ったり、会社の経営にまつわる仕事をしたりと、まさにオールラウンドな仕事ぶり。
そんな聡さんの趣味は?と聞くと、土曜日に会社に来れば見られるというので行ってみた。 すると、草履を草木染めにして、新しい色の草履を作っている聡さんの姿が。 これも仕事では?と尋ねる私に、聡さんは「ものづくりが好きなので、これは趣味」と語る。
「試行錯誤中ですが、いつか自分の色が出せたら」と語る彼の姿に、心から草履作りを楽しんでいる様子が垣間見え、思わず心が温かくなる取材だった。

豊国草履

豊国草履

酒造米「豊国」の稲藁で作られた草履。豊国は稲の背が高く、細く柔らかいので草履に適しているため使用されるようになる。 現在の河北町谷地に生まれた田宮五右衛門は他の産地に学び、農家の副収入源として山形の稲を使った草履作りを広めた。 第二次世界大戦が始まると若い男性が徴兵されたため、女性だけでは大規模な稲作が難しく、材料となる稲藁の収穫量が激減する。 さらに戦後は洋装化や生活様式の変化により、履物の主流が靴やスリッパに移っていく。それとともに200軒以上あった工場は スリッパ工場やニット工場に転換し、現在手編み草履を生産しているのは軽部草履1軒のみとなっている。

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