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#172

奈良県 赤膚焼 陶芸作家
うつわに映える「あをによし」―

大塩 まな・ほさな

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赤膚焼 陶芸作家
大塩 まな・ほさな

Oshio Mana
1997年 奈良県生まれ

Oshio Hosana
1995年 奈良県生まれ

奈良の赤膚焼あかはだやき「大塩正窯」の窯主 大塩 正の娘として生まれる。

姉妹ともに子どもの頃から絵画に強い関心があり、共に高校の芸術科を卒業した。

妹のまなさんは陶芸を専攻し、本格的に作陶を学んだ。姉のほさなさんは彫金などを専攻、高校卒業後は京都の専門学校で陶芸の絵付けを学んだ。

その後、姉妹で父に弟子入りし、400年続く赤膚焼の伝統を受け継ぎ守るべく日々研鑽を積むとともに、斬新なデザインのオリジナル作品も意欲的に制作し、陶芸作家として挑戦を続けている。

土全体を練りながら硬さを調整し
自分好みに扱いやすくしていく。

妹 大塩まな さん
インタビュー

短大の陶芸専攻を受験した時は「2年やって楽しかったら続けていこう」くらいの気軽な感じでしたが、いざやってみたら、想像以上に奥が深く楽しくて「これは一生続けていきたい!」って思いました。

父や学校の先生、他の作家の先生方も「伝統的な技術を自分のものにして、どう使うかが作家として大事」とおっしゃいます。自分が後継者になると自覚してから、その言葉の意味が凄くわかるようになりました。

下書きなしで直接線を描いていく
描かれるのは、奈良にちなんだ風景や動物。

姉 大塩 ほさな さん
インタビュー

子どもの頃から写しやデッサンには自信があったので、伝統的な奈良絵を焼物に描く仕事はとても自分に合っていると思っています。

まっすぐ陶芸の道を歩んだわけではありませんが、軽いタッチで描く奈良絵にはデッサンの経験が必要だったので、それには陶芸以外の勉強が凄く役に立ちました。

オリジナルの作品を作る時、私はじっくり作るタイプのためデザインで悩むことも多いのですが、妹は思いついてから完成までがとにかく早く、デザインの斬新さにも毎回驚かされています。

ものづくりに関しては正反対の気質なので、お互い相談することは結構ありますね。

大塩 ほさなさん
赤膚焼 陶芸作家
大塩 ほさなさん
大塩 正さん
大塩正窯 窯主
大塩 正さん
大塩 まなさん
赤膚焼 陶芸作家
大塩 まなさん

大塩正窯 窯主
大塩 正さんインタビュー

2人とも僕が「やってみないか」と言ったのがきっかけではありますが、楽しんで続けてくれているのが嬉しいですね。萩釉はぎゆうと奈良絵のオーソドックスな赤膚焼のうつわ作りを大切にしてほしいというのはもちろんですが、陶芸家としての挑戦も続けてほしいです。

今は絵付けと成形を分担してやってますけど、作家として独り立ちするには両方の技術が必要になるので、どちらもできるようになってほしいです。

作家は、自分の世界を表現したくなる時と、シンプルな伝統に立ち返りたくなる時を行ったり来たりしながら成長していくもんやな、と僕は思うんです。絵付けでは奈良絵を守るのも大事だけど「ほさなの奈良絵」っていうのを見つけてほしいし、赤膚は自由で何でもありなので「まなの世界観」はそのまま大事にして面白いものを作っていってほしいですね。

取材を終えて

赤膚焼の陶芸作家、大塩姉妹の作陶は対照的だ。

インスピレーションから作陶を始め、途中でどんどんイメージを膨らませていく妹のまなさん。対して緻密な計画を立てて作陶を始め、あらかじめ決めていた模様や絵を規則正しく描いていく姉のほさなさん。一見正反対な性格の姉妹だが、とても仲の良い姉妹だ。

作陶を終えるとコーヒーを飲みながら品評会を行う。この時は父母も一緒に「ああでもない、こうでもない」と楽しく話している。何度かそのような姿を見るうちに、この家族仲の良さが大塩一家の作陶の大きな原動力となっているように思えた。

姉妹が作り出す赤膚焼の未来に今後も注視していきたいと思った取材だった。

赤膚焼

赤膚焼

1583年、豊臣秀吉の弟で大和郡山城主の豊臣秀長が茶の湯の興りに則って愛知県常滑とこなめの陶工を招いて茶器を焼かせたのが始まりとされる。土の色が人肌のような赤みを帯びていたため赤膚あかはだと呼ばれるようになったと言われる。

茶の湯武家茶人の小堀遠州の指導で茶器が作られるようになると「遠州七窯」のうちの一つとして高い人気を得た。

江戸時代末期には赤膚焼中興の祖である奥田木白により全国各地の釉薬や技法が取り入れられ解釈や作風の決まりはなくなっていく中、乳白色の「萩釉」と素朴な「奈良絵」が大きな特徴として現代まで受け継がれている。