Nakaoka Yoko
1986年 兵庫県出身
京都の芸術大学・大学院で蒔絵を学び、卒業後は一般企業に就職するが、28歳の時に加賀市の漆工芸工房に弟子入りし、再び蒔絵を学ぶ。
蒔絵の修復をしたいという気持ちが強くなり、海外で博物館の所蔵品等の貴重な蒔絵を修復していた更谷富蔵氏に師事。現在は石川県小松市に拠点を置き、加賀蒔絵師の二代目野村大仙氏の指導を仰ぎながら、石川県の伝統工芸品である九谷焼の修復を主に行う。
ガラス質で硬い上、微細な絵付けが特徴の九谷焼の修復は難易度が高いとされるが、蒔絵の経験で培われた丁寧な仕事ぶりで高い評価を得ている。
芸大に進学した後に現代アートと出会って、そちらに傾倒してしまっていたんですが、海外に流出した漆芸品を修復されている更谷先生の本を読ませていただいて、「やはり修復の道に戻りたい」と思いました。
蒔絵の基礎をもう一度勉強し直して、更谷先生に弟子入りをして、金継ぎは蒔絵修復の傍ら、頼まれたらやっていた程度だったんですが、コロナ禍で海外から受注していた蒔絵修復の仕事がどうなるかわからないとなった時、友人から「金継ぎ教室をやろうよ」と提案されてスタートしました。
九谷焼の修復が持ち込まれたときに本当にどうすればいいかわからなかったのですが、お教室の展覧会を見にきてくださっていた方が、加賀蒔絵師の野村先生を紹介してくださいました。
同じように九谷焼の修復に取り組まれ、試行錯誤を繰り返されていた野村先生からその技を全部教えていただけたことはとても大きかったです。
本来、金継ぎは蒔絵師の仕事のうちの一部という捉え方が一般的でした。
様々なご縁があって金継ぎ教室をさせていただいていますが、漆工芸の文化を残していく、漆について知っていただく上で金継ぎはわかりやすくて最適だと感じています。
依頼される時に、持ち主の気持ちは伺うことができますが、特に骨董品や美術品は作った人の気持ちまでは直接聞けないことの方が多いです。
「この器を作った方はどんな思いで作ったんだろう?」「何を表現したかったんだろう?」と考えて、直し方を考えていくのもこの仕事の面白さだと思います。
骨董品と普段使いの食器はどちらも違った面白さがあるのですが、普段から使っている食器を直したお客様から「別のところが欠けちゃったからもう一回直してほしい」という依頼があると、生活のお役に立てていると感じます。
能登半島地震では九谷焼の窯元さんや問屋さんがたくさん被災されました。
窯元さんや問屋さんでは、粉々に割れたいくつもの作品の破片が混ざってしまって、どの破片がどの器か判別できない状態になってしまっていました。
判別できて、かつパーツが揃っている器は数えるほどしかなかったんですね。
どうすることもできない粉々の破片を見て、心が痛かったです。
どうしても時間がかかる作業なので本当に少しずつですが、助けることができた器を修復しています。
金継ぎの修復は割れたところをあえて見せるので、完全に元通りにはならないんですが、「割れてしまった」っていう予想外の出来事を迎えた器の修復を通して、持ち主や依頼主の気持ちを立て直すことができれば、という気持ちがあります。
自分の作品を世に出したい、残したい、というのではなく、先人の作品をいかに後世に遺していけるのかということに注力している中岡さん。
先人へのリスペクト、伝統を守り続けたいとの気持ちが強く感じられました。先人たちがどんな気持ちで作った器なのかを汲み取ろうとし、そこに楽しみを見出している様子が印象的で、修復する器を通して先人たちと会話しているかのようでした。
金継ぎは海外でも注目されて人気を集めていますが、室町時代から続く漆工芸の技法のひとつであるという背景も含めて知っていただきたいというのが中岡さんの願い。表面だけではなく、内面、そこに至るまでの過程がいかに大事かというのは、金継ぎに限ったことではないと、改めて感じさせられました。
物も人間も日々変化しているわけですが、時を経たからこその良さがある、そこに気づかせてくれた中岡さんに感謝しています。
金継ぎとは欠けたり割れたりしてしまった器を、漆と金粉を使って修復する日本の伝統的技法。
縄文時代の遺跡から漆で修復された土器は多数採掘されており、中には接着後に砂で装飾をしたものも発見されている。
金粉を用いた金継ぎは、室町時代の武家社会で茶の湯の隆盛と共に生まれた。
室町時代当時、お殿様の大切な茶器を破損させた際は命懸けで詫びなければならなかったため、割れた跡を金で継いで付加価値をつけ、殿の怒りを鎮めるために蒔絵の技術を用いて金で継いだのが始まりと言われている。
江戸時代の文献には陶器の修復専門の職人「継ぎ物師」が確認でき、器修復が町民文化に溶け込んでいたことが推察できる。