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いかご職人
須浪 隆貴

Sunami Ryuki
1993年 岡山県生まれ

家業が「い草」で「花ござ」や「いかご」を製造する須浪家に生まれた隆貴さんは、「い草」の香りと、職人たちに囲まれて育った。
おばあちゃん子だった隆貴さんは、小さい頃はいつもかごを編む祖母 栄さんの側で遊んでいたという。「いかご」作りは、物心がつく前から栄さんの手仕事を見て、聞いて、学び、日常の中で覚えていった。

高校卒業後、彫金の専門学校に通いながら、自宅では好きな靴や厚物の洋服を作った。そして、専門学校を卒業後、ご高齢の栄さんの後を受け継ぎ「いかご職人」の道へと進み、今、その伝統をたった一人で守り続けている。

「い縄」の撚り加減、柔らかさを見極め、
全体のバランスを調整する。

須浪 隆貴さん インタビュー
いかご作りを受け継いだ経緯は?

僕が小学校6年生の時に父が亡くなったんですよ。祖父も高齢で体を悪くしていたので、祖母は廃業を考えたようですが、かごを編むことなら続けられると、「花ござ」製造は辞めて「いかご」だけに絞って繋いでくれたんです。でも6年ほど前、祖父の体調があまり良くなくなり、続けることが難しくなったんです。辞めてしまおうかと…ちょうど僕が専門学校を卒業する頃でした。

僕は民藝みんげいに興味を持っていて、「いかご」の生まれた背景を知り「ウチのかごもなかなか面白い」と思っていました。
卒業を控え「生きていくのに何の仕事をしたいか?」と思った時に、やっぱり僕は、何かを作るのが好きで、それを社会との接点にしていなければいけない。「では、僕に出来ることは?」と考えた時に浮かんだ答え、それが「かごを編むこと」でした。

手作業で「い縄」の生地を編んでゆく。
解けないようにするために、何度も丁寧に編み込む。

将来の夢は?

ウチの田んぼで米作りをしているんですが、もし育てられるものならまた「い草」を育ててみたいですね。そんなに甘くもないと思いますけど。
育てない方が絶対楽なのは分かっています。でも、仕事が個人で完結するということはもちろん、何よりここ早沖はやおき(須浪家がある場所)の「い草」で、早沖の「いかご」を作ることに意味があると思うんです。これが夢です。

須浪 隆貴さん
弟子
須浪 隆貴さん
須浪 栄さん
師匠 祖母
須浪 栄さん

師匠 祖母
須浪 栄さん インタビュー

隆貴さんは栄さんから「いかご」を学んだと言われていますが?

私は特別に教えたような感じはありませんよ。見て覚えとったんでしょう。十何年も、ずっと側で見とりましたから。
まさか隆貴がかごを編むとは、私も思わなかったんです。私ももう歳が歳ですし、おじいさんの方に手がかかりだしたから、「辞める」と言ったら隆貴が「やる」って。
私が続けていたので、かえって悪いことしたんじゃないかなぁと思いましたけど、本人がその気でおるんなら。私よりおじいさんの方がもっと喜んでおりました(笑)
「出来るだけやってみりゃー良いがぁ」と、私は思っとります。

取材を終えて

「若いのに随分しっかりした方だなぁ」これが最初にお会いした時の印象。

民藝との出会いは高校生の時。祖母の栄さんと行った日本民藝館で、衝撃を受けたそうです。ここにあるものは一体何なのか?と。そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝にどんどん惹かれていったそうです。
「この民具はどうして生まれ、なぜなくなったのか?」。時代背景や、そのデザインが生まれた理由などを知ることが面白いと言います。
人々の生活の根幹的な部分を見つめながら、その時代、その地方に想いを馳せているのかもしれません。

育った家や、町を愛し、一つひとつ丁寧に「いかご」を編む姿には、貫禄さえ感じられます。
「いかご作りは、出来れば一生続けて行きたい」と話してくれた隆貴さん。
残るべきものは何なのかを分かっているからこそ、言葉を慎重に選んだのだと思いました。
この若者には、最後の最後まで良い意味で裏切られました。

いかご

いかご

「い草」を撚った縄で編まれたかご、「いかご」。「い草」の青と、畳の香りに癒される。
その昔「闇かご」と呼ばれたこのかごは、戦後、闇市で買い物した貴重な食料を運ぶため、また、醤油を詰めてもらうための貴重な瓶を持ち運ぶために生まれた。
「闇かご」は、全国どこの地域にもあり、その土地で採れる竹や山葡萄、あけびのつるなどで編まれたそうだが、倉敷には山が無く、畳表たたみおもてや花ござ作りの余りで出る、短い「い草」を撚って縄にして編むようになった。「いかご」は「い草」の一大産地だった倉敷で生まれ、独自の製法を持つ倉敷固有のものとなっていった。
現在作っている職人は、須浪隆貴さんただ一人である。

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