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琉球びんがた職人
知念 冬馬

Chinen Toma
1988年 沖縄県生まれ

かつての琉球王国王家お抱えの紅型びんがた三宗家、知念家の流れをくむ家に生まれ17歳より琉球びんがたの知念紅型研究所にて祖父である知念貞男の下、紅型作りに従事する。
10代後半から京都や大阪、イタリア・ミラノでグラフィックデザインを学び、22歳で知念家十代目(びんがた七代目)として伝統的技術を継承し工房を引き継ぐ。現在、工房の当主として、若手職人の育成をするとともに、国内のみならず海外などにも琉球びんがたの普及、発展に勤しむ。

完成した図案を元に型紙を細かく彫っていく。
その時、下敷きとして使用するのが、島豆腐を2,3ヶ月天日干しにした「ルクジュー」。
適度な弾力が差した刃先を守る。道具も含めて紅型の歴史を作っている。

知念 冬馬さん インタビュー
琉球びんがたの魅力は?

琉球王朝時代に中国と日本と東南アジアとの交易による、多様性の「ちゃんぷる文化」によって育まれた色柄が特徴です。
紅型の鮮やかな色は、沖縄で染めているからこそなんです。沖縄の太陽、風、動植物、この恵まれた自然環境で染めるからこそ自然とあの色が生まれるんです。色を考えるというよりも、当たり前のようにあの色を挿すという感じです。
また、琉球びんがたは、その時代の自身が置かれている生活が柄にもなります。沖縄のその時代、その時代の姿をきれいに映し出していると思います。

紅型には染料ではなく、染め物に不向きな顔料を使う。
顔料は強い日差しの中でも色が褪せにくく、定着すると染料よりも鮮やかに発色する。
生地の奥まで浸透しにくいため、別の筆で刷り込んで定着させる。

工房を継ごうと思ったきっかけは?

沖縄を離れ、京都や大阪、イタリアでデザインを学びました。俯瞰して見たときに、沖縄という小さい国に、ものすごい技術があるのだと再確認し、これは継がなければいけないと思いました。
特に惹かれた技術は、美しさを生み出すためにどんな手間も惜しまず、多くの工程をこなさないといけないこと。でも、それは、大変だというより、楽しさしかないと感じています。工房を受け継ぐという事は、師匠でもある祖父の技術も継ぐという事。祖父の名を汚すようなことがあってはいけない。良い作品を作り続けることが祖父の作った工房の信念として続けていかなければならない事だと思っています。

輪郭にいっそう濃い色を差し、筆でこする。隈取という、柄にぼかしを入れる紅型独特の技法。
立体感や深みを持たせると同時に、こする回数が増えることで顔料をさらに定着させる効果もある。

今後の目標は?

着物だけではなく、身の回りのちょっとしたものにも琉球びんがたがあり、誰でも気軽に手に取れるものにしたいです。
また、首里城の火災によって多くの工芸品も被害を受けたと聞きます。どのように携われるかわかりませんが、その復元もしていきたいと思います。沖縄のシンボルを失った時だからこそ、沖縄はそれだけじゃない、人や伝統工芸などすごいものがあるんだと思ってもらえるようにしないといけません。
職人たちは、自らの技術で常に沖縄を盛り上げていこうと思っています。そこはぶれることなく、しっかりと信念を持って沖縄を盛り上げていきたいと思っています。

取材を終えて

飛行機を降りると、沖縄独特の空気に気持ちが高揚します。降り注ぐ太陽の光、潮の香り、かつての王国を思わせる景色…、そういったこの土地ならではのものが、琉球びんがたの鮮やかな色彩と図柄に現われていると感じました。
今回の取材は、首里城焼失という深い悲しみを抱える中行われました。琉球びんがたは、琉球王国がなくなり、焦土と化した沖縄戦など、幾度となく消滅の危機に見舞われ、そのたびに復興し歴史を今に繋いできました。同じ歴史を歩んできた首里城も、いつの日かきっと、琉球王国の象徴として再び輝く深紅の姿を目にすることができると信じています。

珠洲焼

琉球びんがた

琉球びんがたは15世紀、琉球王朝時代に中国、日本、東南アジアそれぞれとの交易の中で、多様性の染め物として生まれ、主に王族の衣装として沖縄の豊かな自然や特色を鮮やかな色彩や図柄で表現した伝統的手染物。戦前は琉球衣装とされ、戦後には和装として多く染められ全国へと広がりを見せた。顔料を使用することで強い太陽の日差しでも色褪せることなく鮮やかな色彩が表現されている。
1973年に沖縄県の無形文化財、1984年に国の伝統工芸品として指定されている。

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