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天明鋳物師
江田 朋

Eda Tomoya
1993年 栃木県生まれ

佐野市の鋳物工房「和銑釜 江田工房」の二十三代目当主 江田蕙の次男として生まれる。幼少期より父の工房に出入りし、小学校に入る頃には作業を手伝うようになる。
岩手大学、東京芸術大学大学院で鋳金を学び、卒業後に長野工房の釜師である二代目 長野垤志に弟子入りし、茶釜作りの技術に加え、茶道も学んだ。
2021年春、3年の修業を終え江田工房に戻り、一人前の釜師になるため日々精進している。

粘土で作った立体イメージと図面を元に、頭で想像する形を釜の表面に作り出してゆく。
砂を盛った部分は釜が完成する時、周りよりも凹んだ部分になる。
この塗り込みは茶の湯釜の造形を左右する上で最も重要な工程のひとつ。

江田 朋さん インタビュー
幼少期の記憶

父が「何かを作っている人」というのは分かっていたんですけど、お客さんが父のことを「先生、先生」って呼んで敬っているのが不思議でしょうがなかったです。
小学校に入る頃には、砂をふるったり粘土触ったりするのが好きだったので「僕も茶釜を作りたい」と言っていました。
中学、高校と進む中で、いろんな進路を提示されますが「自分の作ったものが100年、200年って残る」と考えたら、鋳物師という仕事がすごい魅力的に思えたんです。それからは職人以外の道に進もうとは、全く考えませんでしたね。

釜師を目指して

師匠(二代目長野垤志)に弟子入りして、最初にデザインを見せた時に「若いのにこんな古臭いものを作るなよ」って言われたんです。その時「伝統」「歴史」という言葉の意味をわかったつもりになっていたことに気づきました。
技術と精神が職人によって継承されていくことで、守られるのが伝統なのかな。そう思って今は自分らしい表現、今の自分の釜を作ろうと思って制作しています。
師匠は自分の表現を追い求めながらお茶の学問的なことも研究して、広い視野で茶釜のことを考えているので「鉄を流して作るだけじゃない」そのようなところも尊敬しています。

鋳物作り最難関の「吹き」の工程。
慎重に上下の型を組み合わせ、1550℃以上に溶かした和銑という鉄を流し込む。
翌日、型を外し表面を仕上げていく。

師匠 長野工房
二代目 長野 垤志さんインタビュー

育った時代や環境もあるんでしょうけど、朋くんは私が想像もつかないようなものを作ります。そういうところが朋くんの魅力、長所ですよね。
朋くんは芸大の製作なんかもやって造形には慣れてますが、茶の湯釜という「茶道具を作る」ことに関してはまだまだこれからです。
今の朋くんはきっと大変だと思いますが、技を使いたての若い時なんてみんなそうですよ。全部を理解できるのなんて本当に最後の最後です。辛抱強く、ブレずに仕事をすること。そしていろんな世界を広い視野で見て、挑戦すること。
あとは立派なお父さんがすぐそばにいるのだから、お父さんから吸収できるものは吸収して、立派な職人になってほしいです。

江田 朋さん
天明鋳物師
江田 朋さん
江田 蕙さん
父 江田工房 二十三代目
江田 蕙さん
長野 垤志さん
師匠 長野工房 二代目
長野 垤志さん

父 江田工房 二十三代目
江田 蕙さんインタビュー

朋は子供の頃から手伝うのも好きで、小学校入るか入らないかぐらいの頃から「粘土を持ってきて」「炭の用意をして」と言うと、楽しそうにやってました。
それから、風鈴を買いに来たお客様が音を聞いて喜んでらっしゃるところを見るじゃないですか。朋は人を喜ばせるのが好きなところもありますから、そういう部分でも工芸に惹かれたんじゃないかなと思います。 日本の工芸は何でもそうなんですが、デジタルで計測せずに職人の感覚で作るものです。
鉄を見れば温度がわかって、砂を握った時の重さで自分の作りたいものに合ってるかがわかるような、そういった感覚は経験でしか身に付かないので、地道にやっていくことが必要ですね。

取材を終えて

茶の湯釜の工程の序盤は、ひたすら砂との格闘が続く。砂を段階的にふるい、上型と尻型をそれぞれ四段階に分けて砂を挽き、次に上型の形を決めていく。その後も工房の一角から動かず、ひたすら砂を盛っていく。思わず「工程を繰り返し続けることに飽きたりしませんか?」と失礼なことを聞いた私に、朋さんは意外な回答をした。
「普通の鋳物だったらすぐに飽きますね。でも釜はいつも違う形で一つとして同じものができないので毎回楽しみながら作ってます」
砂の盛り付けひとつで釜は大きく変わる。だからこそ毎回楽しんで砂と格闘しているという。「釜づくりは一生飽きないと思いますね」この力強い一言が印象に残る取材だった。

天明鋳物

天明鋳物

天明鋳物は、939年に藤原秀郷が平将門の乱を鎮めるため、河内国から5人の鋳物職人を天命(現在の栃木県佐野市)の地に住まわせ、武具を作らせたことが発祥と言われている。
その後、武家社会での茶の湯の流行で、大胆で独創的な作風や荒々しい肌合いが特に好まれ、「西の芦屋」「東の天明」と、全国にその名を轟かせた。
江戸時代では公家などの庇護を受けたが、幕末には公家が没落、明治以降は生活様式も変化し鋳物師は減少していった。
現在は何人かの職人たちが茶釜をはじめとする工芸品などを作り、天明鋳物の誇りと優れた技術を守り続けている。

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