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Ito Shiori
1995年 岩手県出身
高校卒業後、大学の法学部に進学したが、大学4年生の時に伝統工芸品の魅力に気づく。「自分も手仕事で何かを作りたい」という気持ちが強くなり、図書館や伝統工芸の展示会やギャラリーに通い情報収集をした。
職人の求人情報もなかなか出ておらず、偶然「カネキン小椋製盆所」の情報を見つけるも、募集が終了していた。それでも会社に連絡し、東京の展示会場で社長の小椋浩喜さんとの面会を取り付ける。
その場での採用には至らなかったが、小椋さんの勧めで南木曽町の地域おこし協力隊の研修生として工房で働き始める。
協力隊の任期終了後に正式に入社し、現在は製品作りを任される存在になっている。
伝統工芸の道に進む人は、職人の家系に生まれていたり、子供の時からものづくりが好きな人が多いと思うのですが、私の場合は大学4年で思い立って行動しているので、情報収集や求人探しも大変でした。
ただ、予備知識がないぶん、「思ってたのと違う」というギャップを感じずに、どんな作業も楽しんで学ぶことができたのは良かったかな、と思います。
南木曽ろくろは特に製材から仕上げまで一貫してできるので、自分が作りたいと思ったものを自由に作れるのも楽しいです。
チャレンジできる機会がたくさんある環境なのが本当にありがたいです。
いろいろな製品がありますが、最も作る機会が多いのは食器、それからお盆やおひつなど、食事やお茶に関わるものです。
なので、お客様が安心して使えるものを作ることを一番に心がけています。
見た目で傷や欠けがないことはもちろんですが、手にとった時にささくれがあったら、やはりそういうものは安心して使うことができないと思うんですね。
薄くて軽いものの場合は物を入れたときの安定感がなくなってしまうことがあるので、そういったことも気をつけています。
まだまだ自分のことを職人と言うには畏れ多いのですが、自分のアイデアと技で、お客様のニーズに応えていけたらいいなと思います。
南木曽ろくろはデザインから仕上げまで全て一人の職人が行うため、どこにこだわるかも職人それぞれではありますが、私は木目をどう出すかに最もこだわっています。
「器になった時に表面にどんな木目が出てくるか」というのを想像して木取りをしますが、材料の木が持っている木目は変えられないので、「この木はどう切ったらいい木目が出るかな」というのを考えていますね。
史織にも木取りを教え始めましたが、何をもって「いい木目」とするかはその職人の感性ですので、史織がどんな木目を出してくるか楽しみです。
史織は地域おこし協力隊で来てからもう8年ですが、毎日毎日どんどん成長していて、助かっています。
今の史織に必要だと思うことは、1日に作れる数を少しでも増やせるようにすることです。
機械のスイッチの場所や次に使う道具の場所がほぼほぼ見ないでもわかるようになると、無駄な動作が減って1日で作れる数はもっと増えてくると思います。
撮影を開始したのが冬。撮影期間中、「木地師の里」周辺は、道路に雪が積もることはありませんでしたが、気温がマイナス10度を記録した日もあり、厳しい寒さの中での作業風景を見せていただきました。
史織さんは、上着とズボンを重ね着、重ね履きしていたものの、かんなを握ってろくろを挽く手は素手。
かすかな感触の違いを見極めて作り上げる、とても繊細なものづくりであることを、実際に見せていただき改めて感じました。
また、小柄ながら力仕事を厭わず、むしろ楽しんでいるようにも見えました。自分の性格を頑固だと言っていましたが、独りよがりな頑固さではなく、納得できるまで妥協しないこだわりの強さが彼女の持ち味だと思います。
かといって気負いはなく自然体で、工房の皆さん、地域の皆さんからも可愛がられ、期待されていることも雑談の中からうかがい知ることができました。
長野県木曽郡南木曽町周辺で作られている、トチ、ケヤキ、セン、カツラなどの原木を、ろくろで回しながらかんなで削って成形して作り上げられる木工品。
南木曽町でろくろ細工が作られ始めた時期は定かではないが、文献によると江戸時代中期ごろには木地師と呼ばれる職人が定住し、木地製品を作っていたことが明らかとなっている。
明治時代以降、交通網が整備されるとお盆や茶びつなどが都市に大量に出荷され、「南木曽ろくろ細工」として広く知られるようになった。
大型の木地鉢やお盆、茶びつなどが多く作られていたが、時代や生活様式の変化とともに、食器や雑貨など多様な製品が作られている。
1980年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品に選定された。